フランス歴史ろまん Marie Antoinette
マリー・アントワネット追っかけの旅
マリー・アントワネット
について

フランス王妃
あだ名は「赤字夫人」
革命と逃亡
裁判、そして断頭台へ
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マリー・アントワネットは
悪女!?
マリー・アントワネット
追っかけの旅

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 ヴェルサイユ宮殿 3
     -王の内殿・王妃の寝室-
ルイ16世の図書室

王の部屋は「振り子時計の間」や高級家具、巻き上げ式の蓋のついた机などがある「奥の間」、浴室などが見学できます。


「ルイ16世の図書の間」は読書好きのルイ16世ですから、たくさん本が並べられているのは当然なんですが、何故か部屋の扉にまで本が並んでいます。

扉に入れられてる本は背の部分だけの偽物で、実際にこの扉の厚さでは本が入る奥行きはないわけです。
なんだこりゃ・・・?と思ったら、隠し扉なのだそうです。


当時を再現したものなので今は実際の隠し扉ではなく、わざとその細工を見せているのですが、見学時に出入りする大きな扉がまさにソレでした。




とにかくヴェルサイユには、外回りに公の部屋と扉があって内側に私的な部屋とそちらに通じる裏扉が別にあるのです。

まさか暴徒化した民衆に攻め込まれると思ってつくったわけではないけど、結局マリー・アントワネットも子供たちもそれで救われたのでしょう。

全てを見せていたルイ14世の時代のあと、ルイ15世となんといってもマリー・アントワネットは私的な生活にこだわり、親しい仲間だけが集まる内殿を増やしたとういうことです。

こういった扉も、やはりルイ15世ののちにさらに増えていったものなのでしょう。





こちらは国王が非公式に食事をする場所だった部屋。
といっても、その場には常に何十人かの人がいたということです。

ルイ16世は何人いようが見られようが、食欲は変わらなかったみたいですね。
マリー・アントワネットとは正反対です。


セーブルの絵皿が部屋の壁側にあるケースの中に綺麗に飾られていました。

ルイ15世の愛妾ポンパドール夫人が王立磁器製作所というのを設立するくらい陶磁器好きだったということですが、マリー・アントワネットもセーブルの食器を愛用していました。





ヴェルサイユ宮殿のなかで、一番人気の部屋はこの「王妃の寝室」ではないでしょうか。
とにかくみんなここで立ち止まる時間が長いから、いつも混雑しています。

現在公開されている王妃の寝室は、この部屋の最後の主人マリー・アントワネットの時代を再現しているので、なおさらです。


寝室とは言いますが、この部屋には朝からたくさんの貴族や侍女が集まって、下着ひとつ王妃が自分自身で身に着けるということはありません。
何から何まで、儀式に合わせて一つ一つ、必ず誰かに役割があります。

それにヴェルサイユの生活は毎日毎日規則正しく時間どおり、面倒な仕来たりもいっぱいでとても窮屈なものだったでしょう。
中にはマリーアントワネットが廃止したものもありましたが、笑えないことのひとつが公開出産。

マリー・アントワネットの時代でも第一子出産の時にはまだそんなことが行われていたようです。
ばかげていると思いますが、本当に王妃が世継ぎを出産したかを見守るためということです。
むせ返るほどの人が集まっていたそうですが、 そんなに大勢必要なのでしょうか。
なんだかただの好奇心に思えるような気もします。




王妃の寝室はベッド左側の壁と一体化した扉の向こうが私室になっています。

マリー・アントワネットは私室を広げ、「黄金の間」と呼ばれる部屋に親しい友人だけを集めて過ごしていました。
お抱え画家のヴィジェ・ルブランや突飛なアイデアとセンスで王妃のドレスをデザインしたローズ・ベルタン、音楽の先生であった作曲家グルックなどが常連です。


お昼寝のための「午睡の間」は、何よりヴェルサイユ特有のルールであるエチケットから開放されるという、王妃にとっては自分の場所そのものだったのかもしれません。
それに比べて、本をまともに読まないと言われているマリー・アントワネットが「図書の間」ってのを実際に利用していたのか?それは疑問です。


マリーアントワネットの寝室の鏡

寝室の鏡は反対側にも同じように鏡があり、
部屋を広く美しく見せるために、シャンデリアが連なりに映るようになっています。



1789年10月5日、武装した民衆が王妃の寝室に押し寄せ、マリー・アントワネットは間一髪、王の部屋へと逃げ込みます。

 「王妃を出せ!オーストリア女はどこだ!」と叫ぶ民衆。
その恐怖の中、マリー・アントワネットは毅然とバルコニーへ出て優雅にお辞儀。
その姿を見て民衆の罵声は一転、「国王万歳!王妃万歳!」へと変わったといわれています。



国王一家はこの日を最後にヴェルサイユをあとにし、パリのチュイルリー宮殿へと移り生活は一変。
この部屋やプチトリアノンにも再びマリー・アントワネットが戻ることはありませんでした。


すっちゃかめっちゃか、そのままにして出て行ったのでしょう。
革命後に宮殿はそうとう荒らされたということだし、家具や調度品も盗まれてあっちこちに散らばってしまったらしいけど、歳月をかけてまた今の時代に当時が再現されたということは本当にうれしいことです。





最後に、皇太子(ルイ16世)とマリー・アントワネットの式が行われたヴェルサイユ宮殿のオペラ座へ。

うす暗〜い廊下を通って劇場に行くのですが、こんな場所で写真をパチパチ撮っていたので、外国人に不思議そうな目で見られてしまいました。

オペラ座はルイ14世の時代から計画されていたけれど、それに費やすお金のことやらでずっと延び延びになっていました。
ルイ16世とマリーアントワネットが婚姻したのをきっかけにようやく進められて完成したとのこと。


自分の結婚式のためにオペラ座が建てられるなんて、すごいですね。
幼いマリーアントワネットも、この結婚は自分の将来を確立してくれたものだと有頂天になったかもしれません。





ふたりの結婚のお祝いは何日も続いたそうです。
結婚当時のマリー・アントワネットはとっても人気があったんですよね。
現代でいえばダイアナ妃のような感じで国民に愛されていたのかもしれません。

賢いとか人のお手本のような人より、批判もいろいろあるけれど人間臭く人を惹きつける魅力がある。
時が経ち、現代のマリー・アントワネット人気はそういった点でダイアナ妃と似ているのかもしれません。


しかし革命の音が近づく当時は違いました。
王妃になってからのマリーアントワネットの人気は急落。
とんでもない浪費家で、ついに自分専用の小劇場を離宮のそばに建て、自らが女優になりきって芝居をするまでになりました・・・

毎晩宮殿でパーティー、そしてこのオペラ座や王妃の劇場で遊びほうけていた貴族の様子が思い浮かびます。
贅沢は特権階級だけに許されたもの?


そんな時代はついに変わっていくのですが、しかしルイ16世というあまり権力や争いごとに結びつかない国王の代に、革命が起きてしまったということがなんともいえません。


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