フランス歴史ろまん Marie Antoinette
マリー・アントワネットについて
マリー・アントワネット
について

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あだ名は「赤字夫人」
革命と逃亡
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マリー・アントワネット
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  革命と逃亡


当時のフランスはマリー・アントワネットの浪費以前に、国家財政の建てなおしが必要でした。
そのため国王は聖職者や貴族への課税を求めましたがそれに反対され、増税への実現のため三部会を開きます。


フランスの民衆の暮らしは悪天候による凶作もかさなり、小麦の値段が高騰、まさに極限状態でした。
一部の特権階級だけが贅沢をし、貧しい民衆は重税に苦しみ明日のパンにも困る日々を続けていたのです。

人は生まれながらにして自由であるのに・・・、貴族も平民も平等であるべきではないか。
そんな言葉が少しずつ少しずつ、広がっていきます。



1789年5月、聖職者、貴族、そして第三身分の平民が集まり、160年ぶりに三部会が開かれるも議決の方法ですったもんだしてしまい、進まず。
締め出された第三身分の議員は結束し、憲法が制定するまでは解散しないと宣言します。


しかし、国王ルイ16世はこれを武力で潰そうとしてしまい、長い間くすぶり続けていた民衆の怒りがついに爆発するときがやって来ます。


7月11日、国王は国民からの絶大な支持を得ていた財務総監ネッケルを罷免。
このニュースによって怒りに火がついた民衆は14日、武器を求めてバスチーユ牢獄を襲撃、ついにフランス革命の火蓋が切られました。


しかし、この時のルイ16世やマリー・アントワネットにはこれから突き落とされる運命の恐ろしさなど想像もできなかったことでしょう。


民衆が押し寄せた大理石の中庭

その後、国民議会が採択した人権宣言を国王が拒否したため、同年10月5日、パリに集まった民衆の群れが2万人にも膨れ上がり、降りしきる雨の中ヴェルサイユへと行進していきました。



武器を手にした民衆は宮殿へなだれ込み、衛兵を殺害。

民衆は血まなこになって叫びます。

「王を操っているのは王妃だ」「オーストリア女を出せ!」「あの女の首をとってやる!」と叫び、王妃の部屋へと押し入ってきたのです。


間一髪、危機を逃れ国王の部屋へと逃げ込んだマリー・アントワネットでしたが、自分の首を求め興奮する民衆の姿を目の当たりにし、震え上がります。
しかし武器を持って自分を待ち構える恐怖のなか、マリー・アントワネットはバルコニーに出ることを決め、民衆の前でお辞儀をしました。
これが一瞬にして民衆の反応を変えたのかどうかはわかりませんが、罵声は一転して「王妃万歳!」に。



民衆は国王一家のパリ移転を要求したため、王宮はヴェルサイユからパリのチュイルリー宮殿へと移されたのですが、この時の民衆の気持ちは国王一家がパリに住み、自分たちと共存していくということを歓迎していたのです。
しかし、マリー・アントワネットはその状況を認められませんでした。
パリに移ってからもマリー・アントワネットは人前にはろくに姿をあらわしません。


奪われた「自由」が彼女にとっては何よりも大きく、その現実が耐え難いものだったのでしょうか。
「なんとかして自由を取り戻したい!」



マリーアントワネットの求める「自由」と民衆が求めてきた「自由」、フランス革命の理念「自由、平等、博愛」の「自由」に関しては、置かれた身分や環境によって意味が違うということを考えさせられます。


ついにマリー・アントワネットはある決意しますが、それはなんとも愚かなものでした。







1791年6月20日、国王はフランスを捨てて一家で国外へと逃亡を図ったのです。
しかしお粗末な計画は失敗に終わり、2日後にベルギーとの国境間近のヴァレンヌという街で捕らえられることとなります。


あとわずかの距離でベルギーというところで・・・


もし逃げ切っていたら、もっと急いでいたら、荷物をもっと減らして行きなよ、などなどこのヴァレンヌ逃亡事件というのはマリー・アントワネットのこの先の運命というのを決定づけてしまっているだけに、何度も何度も「もし・・・」と考えてしまうところです。


だけど、歴史に「たら・れば」はない、それはマリー・アントワネットの人生にも誰の人生にもそうなのかもしれない。
なぜそうなったのか、そうでなければならなかったのか、これはもう「運命」としか言えない。


この「ヴァレンヌ逃亡事件」は一気に国王一家と民衆の立場を変えてしまいました。
この時、民衆は気づいたのです。
「国王がいなくても自分たちは生きていける」、「フランスに王政は必要ない。」ということを認識したのです。


なんとしても諦めきれないマリー・アントワネットは、フランスが祖国オーストリアに宣戦布告したということを知ると、敵国であるオーストリアにフランスの戦術を通報し続けます。
マリーアントワネットの望みはフランスが負け続け、連合軍によって開放されることでした。

しかし敗北に苛立った民衆はふたたび恐怖の血でフランスを染めていきます。


1792年8月10日、国王一家が暮らすチュイルリー宮殿が民衆によって襲撃され、一家は宮殿から議会へと非難、そしてついに国王ルイ16世は権利停止を宣言されます。

王権を剥奪された一家はタンプル塔へと幽閉され、その生活は厳重な監視のなかで送ることとなり、国王一家が脱出できないようにと幽閉後は塀は高くされ、窓には鉄格子と日よけがあったために寒さもとても厳しかったようです。



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