フランス歴史ろまん | マリー・アントワネットの故郷 | |||
王宮家具博物館 1 - マリア・テレジアの時代 - |
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宮廷で使用さてれていた家具が収められている博物館があるということで行ってきました。 ウィーンの地下鉄U3路線でマリアヒルファーという通りに出ます。 この通りもシュテファン寺院と国立オペラ座をつなぐケルントナー通りに負けない賑わいでした。 ケルトナーが観光客中心なら、マリアヒルファーは地元っ子中心という感じです。 地下鉄を降りて外に出た時点で自分がどちらの方向にいるのかがわからなくなってしまい、角の化粧品屋のお姉さんに尋ねることにしました。 すると「この通りよ」と、店の脇の通りを指されて、ちょうどそこが王宮家具博物館のある道に入る場所でした。 細い路地を入ると一気に人通りがなくなって、少し歩くと控えめな椅子の絵の看板が見えてきました。 目的地の王宮家具博物館はとても綺麗な近代的な建物です。 さっそくチケットを買って、左手の改札みたいなところに差し込んで中に入ります。 |
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ここでの目的はハプスブルク家ゆかりの家具。 それらを集めた「ハプスブルクルーム」という部屋があって、家具だけではなく、それらを愛用していた人物の絵も展示されています。 そしてマリー・アントワネットとルイ16世が描かれている絵も展示されていました。 |
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この絵はマリー・アントワネットの弟マキシミリアン・フランツ大公が1775年にヴェルサイユを訪れたときの様子を描いたものです。 マリー・アントワネットは弟を優遇してしまって、このときにも反感をかってしまったようです。 兄のヨーゼフが来たときもそうでしたが、この時代は嫁いだあとに身内と会うことがほとんど不可能だったと考えると、マリー・アントワネットの気持ちもわからなくはないので許してやってよと思うけど、すでに宮廷にはたくさんの敵が出来てしまっていたんですね。 ハプスブルグ家のほかの姉妹は誰が誰だかわからないのに、マリー・アントワネットはやはり歴史に名を残しただけありますね。 マリア・テレジアを語るときにも、娘のひとりがあのマリー・アントワネットですと付け加えられことも少なくありません。 しかしこのように展示されて女帝の子供たちのなかでも知名度が高い理由は、やはりフランス革命が起きたことと、最後はギロチンにかけられたという残酷な事実があるということなんですよね。 本人は別に歴史に名を残すことなんて望むことなく、ただ「退屈」することなく生きていくことを望んでいただけかもしれません。 自分がブルボン家に嫁いで、その時代に革命が起きるなんて想像もしていなかったわけですから。 |
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夫亡きあと、喪服姿になったマリア・テレジアの肖像画とそれと同じ場所にいかにもマリア・テレジアが好きそうな東洋の風景が描かれた家具があります。 シェーンブルン宮殿には「漆器の間」という部屋があるくらい、マリア・テレジアが漆器に興味があったことはもちろん、家具もまた東洋をイメージしたものがたくさんありました。 その多くは中国のものらしいんだけど、中には日本のものもあるようです。 マリー・アントワネットも日本の漆をたいへん気に入っていて、母親から譲り受けた物も含めてたくさんのコレクションを所有していたようです。 以前、日本で行われたヴェルサイユ展ではそのコレクションの一部が展示されていたし、ルーヴル美術館に行ったときも、蒔絵の部分が日本製だというマリー・アントワネットの文机が思わぬところにあって大感激をしました。 当時のヨーロッパで漆はたいへん人気で、とても自慢のものだったようです。 |
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マリー・アントワネットの兄ヨーゼフ2世。 母マリア・テレジアとともに共同統治を行って女帝の後を継いだ神聖ローマ皇帝。 でもヨーゼフ2世はプロイセン王フリードリヒ2世を崇拝していて、母親とはたびたび意見の違いで衝突していたようです。 政治的な考え方や理想が違っていたのでしょうね。 ところで、モーツアルトはヨーゼフ2世から宮廷音楽家として任命されていた時期がありました。 モーツアルトは、ヨーゼフ2世のおかげで世に出たと言っても過言ではないということですが、皇帝とも次第に折り合いが悪くなってしまって職を追われ、自身の素行の悪さにも問題があったために晩年は仕事に恵まれず借金生活が続きました。 モーツアルトは35歳の若さでこの世を去りましたが、その生涯を描いた映画「アマデウス」に出てくるヨーゼフ2世を演じている役者さんが私のイメージする皇帝そのまんまです。 この作品はモーツアルトもその宿敵であるサリエリという音楽家もみな、その個性を上手く演じている作品でおすすめです。 フランス革命が進んでいった1790年にヨーゼフ2世は病死してしまうのですが、故郷で本当に頼れる人が居なくなったというのもマリー・アントワネットにとっての不幸でした。 もしヨーゼフ2世が生きていたら、革命の火の粉をかぶるのはごめんだとしてもマリー・アントワネットが助けを求めた時に何か的確なアドバイスを与えてくれていたかもしれません。 少なくとも国王一家のヴァレンヌ逃亡事件なんていうお粗末な計画による国民を裏切る行為は、許さなかったのではないかと思うのですが。 |
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