フランス歴史ろまん Marie Antoinette
マリー・アントワネットについて
マリー・アントワネット
について

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あだ名は「赤字夫人」
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マリー・アントワネット
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  あだなは「赤字夫人」


マリー・アントワネットに対する反発やゴシップは、王妃となって間もない頃から既に宮廷内で増えていきました。

ルイ16世には身体的な問題があったためにふたりの結婚が確かなものになるまで七年かかり、その間夫婦に関する噂話がヴェルサイユ中の貴族に広まり、マリー・アントワネットにたいへんな屈辱を与えました。

しかしそんな雑音のなかで王妃としてもう少し慎重に行動すべきだったはずなのに、マリー・アントワネットは「浪費」で時間をやり過ごし、自分の役目に対するプレッシャーを忘れようとします。
いくら外野が騒ごうと、関係なし。
ヴェルイサユ宮殿でマリー・アントワネットは一番高い地位にいる女性です。
欲しいものはなんでも手に入ります。

まず、マリー・アントワネットはファッションリーダーとなって流行をしょっちゅう変化させ、リボンやフリルのたくさん付いたドレスを一時期は二日に一度注文していたとか。
それに髪型はいくら装飾しても飽き足らずどんどん高く結い上げていき、王妃が持ち込んだ流行にみんなが乗っかってその大きさを競い、さらに巨大化し、頭の上に果物、動物、人形などさまざまな飾りを乗っける始末でした。
髪の中にはクッションを入れて膨らまし、ポマードや髪粉をたっぷりと吹きかけています。
それを出来るだけ長くもたせようとするので、当然不衛生だし髪にも良いわけがないのですが、この髪型はのちに王妃が出産し、髪が薄くなったことでそれをやめるまで続きました。

マリー・アントワネットのファッション、その様式はこの時代そのものでした。
時代が彼女を選び、彼女が時代をつくった。
18世紀ロココ時代のヒロインです。
王妃が次々とつくり出す流行に乗り遅れまいとする貴婦人たちの出費はどんどん増えていき、「王妃は貴族を破産させる」とまで言われます。

まだ若かったとはいえ、王妃という身分を隠して羽目をはずせる仮面舞踏会に夢中になり、王妃をカモにした賭博にハマり、立場をわきまえない行動の果てに、マリー・アントワネットは王妃という立場そのものを忘れたかのように「自分の時間」を手にします。




プチトリアノン

マリー・アントワネットの「自由な時間」、それはヴェルサイユから離れたプチ・トリアノンという小さな小さな離宮での暮らしでした。

この離宮には取り巻きしか集めていなかったので、みんなが王妃のご機嫌をとり、王妃が公務そっちのけだろうが人気が落ちようが、自分たちが恩恵を受けることしか考えていないような人がほとんどです。

取り巻きはマリー・アントワネットが次々と手を出す遊びに喜んで付き合います。
王妃に好かれるためにみな競って新しいアイデア(悪知恵)を出していたのかもしれません。

儀礼になんてしばられることもない、自由なこの生活をあじわってしまったらヴェルサイユに戻るのなんてもう面倒。
当然いつも自分の思うがままなので、マリー・アントワネットはこちらを本宅にしてしまう。

ここでは退屈なんてありません。
プチトリアノンもその周辺も自由に模様替えをするという「仕事」がマリー・アントワネットにはあるのです。



庭園の洞窟


プチトリアノンの敷地にはヴェルサイユ宮殿とは対照的な自然そのままのような庭があります。
ここは1777年頃からマリー・アントワネットの希望でリシャール・ミックによって造りかえられた庭園で、それまであった直線的な庭を、自然に曲がりくねったような道と草木が生い茂るイギリス式庭園にすっかり変え、牛や馬が飼い放されました。
全て「自然」につくられたものではなく、莫大な費用をかけて人工的につくられたものです。

プチトリアノンを見渡せる 愛の神殿、小高い丘には床に大理石が敷き詰められたベルベデーレ、そしてそのそばには洞窟。
この洞窟には本当にビックリで、こんな所になんで岩山?と思いきや、中にいる人の会話が外から聞こえないようにと滝まで流したそうで、考え出したのも造ったのもあっぱれな、秘密の園です。

そして現実離れの極めつけは、王妃の村里「アモー」です。
アモーは1783年頃からつくられ、1787年に完成します。
人口の池があり、その前に王妃の家、そして納屋や鳩小屋など10軒ほどの家が建っているのですが、これは宮殿とは対照的というか、完全に貴族の暮らしとは真逆の生活をしようと思い描いたことがわかります。

現実には庶民の暮らしをその目で一度も覗こうとはせず、ただ貧しい暮らしを復元したような村里で自由な時間を手にしたマリー・アントワネット。
大金をかけて「自然風」を人工で造りだし、飾り付けたドレスと髪型をやめ、マリー・アントワネットはわざと簡素な服に身を包みます。



王妃の小劇場

次から次へとやりたいことはいっぱいです。
誰がその気にさせたのか、王妃は自分専用の劇場を建て、自ら演技をし始めます。
ここは外観は地味ですが、中のつくりは凝っていて小さいながらしっかりとした劇場です。

すっかり女優になりきったマリー・アントワネットは、もう芝居に夢中。
貴族を非難した「セビリアの理髪師」をお構いなしで上演。
誰か忠告できなかったのでしょうか・・・
と思うけど、そんな人がいても追い出していたのでしょう。
現実からは遠い遠い、全てがお気に入りだけの小さな世界。


一方ヴェルサイユでは、仲間に入ることができず無視された貴族たちの不満が漏れはじめ、しだいに大きくなり、それが少しずつ固まりになっていきます。




そんな状況の中、王妃を巻き込んだ一大詐欺、「首飾り事件」が起きます。
本来マリー・アントワネットはこの事件の被害者であり、裁きを受けたのは別の人物でした。
しかし既に王妃の浪費と傲慢さはパリでもゴシップになっていたため、事件本来の問題より、「金遣いの荒い王妃が借金を増やし続けている。」という王妃に対する怒りへと一気に流れていきます。
取り巻き仲間に入れず、既にマリー・アントワネットの敵となっていた貴族が影で糸を引いていたこともあるでしょう。

いつの時代も同じで、都合のよい標的が見つかれば、人はあっという間に束になってその標的に向かって攻撃します。
標的はおとなしい王より、もちろん外国から来た浪費家の王妃となって、貧しい暮らしの責任は全て王妃にあるとされ、「赤字夫人」の烙印を押されてしまいます。

民衆はこの「赤字夫人」に敵意をむき出しにして、マリー・アントワネットを徹底的に悪者にしてしまいます。
涙する王妃を民衆は冷やかし、この頃にはもう「オーストリア女」と罵られるようになっていました。



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