フランス歴史ろまん |
Marie Antoinette
マリー・アントワネットについて |
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裁判、そして断頭台へ |
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翌年の1月には夫であるルイ16世の裁判が進み、ほんのわずかな票の差で死刑が宣告され、1793年1月21日、ルイ16世の刑が執行されました。
その年の7月には最愛の息子であるルイ17世とも引き離されることとなり、マリー・アントワネットはすっかり衰弱してしまったということです。
あとはもう運命を待つだけとなって、パリのシテ島にある牢獄コンシェルジュリーへとひとり移送されたのですが、ここはギロチン台の控え室と言われた場所であり、入った者には死が待っています。
10月、革命裁判所へ出頭。
「敵国との共謀」「国家の安全に対する陰謀」の罪を問われますが、当時マリー・アントワネットが国を裏切ったという証拠になるものは何ひとつありませんでした。
しかし裁判が難航すると、裁判所は非公開尋問によってマリー・アントワネットが息子に対して恥ずべき行為を強要していたなどということを幼いルイ17世自らに証言させます。
母親として非常に辛い悲しみを受け追い込まれていくマリー・アントワネットでしたが、それでも毅然と立ち向かい、その証言は卑劣な作り話であり、幼い息子が悪意に満ちた人間に言いくるめられることは容易であるとして、反論しました。
これには傍聴席にいた子を持つ母親たちから同調の声が上がるなど、どんな屈辱にも耐え抜き堂々と振る舞う王妃の姿に、多くの傍聴人がマリー・アントワネットを敵視していながらも、何度もその冷静さと力強さに引き込まれていった様子がうかがえます。
革命後のマリー・アントワネットは苦しみ、様々な事態を乗り越えながら、物事を深く考えなかったそれまでとは徐々に変わっていき、いつしか一人の人間として大きく成長していました。
そして母として、一国の王妃として、最後の力を振り絞って屈辱の裁判に立ち向かい、そこには揺るぎない意志の強さがあったのでしょう。
しかしこの裁判はそれとは関係なく、最初から判決が決まっていたのです。
「被告人は死刑」。
この判決のあと、マリー・アントワネットはルイ16世の妹エリザベート内親王に宛てて遺書を書き残すのですが、それはあの軽薄で愚かであった時代とは別人で、王妃の威厳に満ちていて読むものの心を揺さぶると言われています。
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10月16日、タンプル塔から荷車に乗せられ、断頭台の待つコンコルド広場へと向かうこととなり、十数年前には歓呼の渦巻くなか通り抜けた同じ道で、この時のマリー・アントワネットを迎えたのは憎悪に満ちた民衆の顔と罵声でした。
白髪の混じったその姿はすでに老婆のようであったと言われていますが、マリー・アントワネットはフランス王妃として、そしてあのマリア・テレジアの娘として潔く断頭台へとのぼります。
12時15分、マリー・アントワネットは38歳の生涯を終えました。
広場には「共和国バンザイ!」の叫び声が上がったと言われますが、国王夫婦の処刑は国家が混乱していく序章であり、自由を求めたはずの革命はこの後、何万人もの血を流す恐怖政治へと進んでいったのです。
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