フランス歴史ろまん | Marie Antoinette マリー・アントワネット追っかけの旅 |
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コンシェルジュリー牢獄 -マリー・アントワネットの独房- |
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ノートルダム寺院と同じシテ島にある、えんぴつ型の三つの塔が目じるしのコンシェルジュリ牢獄。 セーヌ川沿いから眺める姿は重々しくて暗い影を落としています。 フランス革命時、牢獄だったこの建物は一時期には600人もの人々が詰め込まれ、合わせて2600人がここから断頭台へと向かいました。 王妃マリー・アントワネットもそのひとりです。 |
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マリー・アントワネットは断頭台までの最後の2ヵ月半をコンシェルジュリで過ごしました。 夫であるルイ16世は既にギロチンにかけられ、ついに愛する子供達とも引き離され、喪服姿に白い帽子をかぶって座っているマリー・アントワネットの様子が再現されています。 独房は当時の半分のスペースということですがほかの部屋に比べるとそれでも広い気がします。 階級や財産によって獄舎の環境はさまざまで、貧しい囚人たちは不潔で悪臭の漂う部屋に集団で収容されていたため、その多くが病人だったそうです。 分厚い石の塔は高さがあって、入り組んだ部屋のつくりは日光をさえぎります。 この建物全体やその周囲はとにかく重苦しい雰囲気で、灰色の雲がずっしりとかかる冬場はより一層、暗い感じです。 |
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MAというマリー・アントワネットのイニシャルを重ねた文字が窓の中央にあります。 この窓のある部屋がちょうどマリー・アントワネットの牢獄と礼拝堂の間にあたる場所です。 |
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マリー・アントワネットの礼拝堂には、ヴィジェ・ルブランの薔薇を持つ王妃が描かれたカードが供えてありました。 自然とその場にいる皆が、順番に前まで歩み寄って少しの間それぞれの思いにふけっている様子でした。 |
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1789年7月、バスティーユ牢獄占拠へと民衆を導くこととなった「ネッケル罷免」のニュース。 それを伝えたカミーユ・デムーラン(ベルばらでベルナールのモデルとなった人物)の肖像や、ロベスピエールのサインが入った文章などが展示されています。 王政が倒れ、革命が最高潮に達するころ、もとは同じ志を持つはずの革命派も分裂、敵対してしまい、ジロンド派が追放されたのち、やがて天下をとったジャコバン派による恐怖政治が始まってしまいました。 そのジャコバンのさらに一派閥のトップであったロベスピエールですが、彼は本来弱いものの見方で、正義そのもののような人物でした。 革命当初は決して過激な考え方ではなかったはずのロベスピエールも、頂点に立ったときはヨーロッパの国々との戦い、そして反革命の動きへの恐れで疑いのあるものはすべて敵となり、その分子を消していく手段がフランスのための正義となってしまったのでしょうか。 ロベスピエール関しては誤解してしまうことが多く、「独裁者」というイメージを私自身も長いこと持っていたけれど、ロベスピエール自身は決して血にまみれた革命を望んだわけでもなく、とても真面目で頭の良い人だったから、一歩も二歩も前に進みすぎた感じで描く理想が高すぎたのかもしれません。 1794年テルミドール9日のクーデターで失脚し、ロベスピエールらもこのコンシェルジュリーから断頭台へとむかうこととなりました。 |
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